ケアンズへワーキングホリデーで渡航し、セカンドワーキングビザも取得して、現在はブリスベンでパートナーと共に暮らす大谷 美保子さんに体験談を書いて頂きました。
Contents
お名前
大谷 美保子さん
留学都市
学校名
SPCケアンズ、CCEB
私について~ワーキングホリデーとの出会い
忘れもしない、Active Womanとの出会い。
「ワーキングホリデー」という言葉を知って4,5年が経ったころ、私は大失恋をしました。初めての大失恋でどう立ち上がったらよいのかわからなかった日々でした。
そんな私を見かねて、高校時代のお友だちが、私を半ば強引に街コン(当時はやっていた複数のレストランを行き来できる街をあげての大合コン)へ連れていってくれました。
元々大人数が苦手・人見知り・あまり男性と話すことが得意ではない私は、やはり行ったことを後悔する苦痛の時間が流れていきました。
耐えること10時間強、最後になんとなく合流した男女で二次会へ行った帰りのことです。合コンへ行くと女の子と意気投合してしまいがちな私はその日もひとりの女の子と出会いました。彼女はなんとなく”街コンに来たのに”がつがつしていない感じが私には心地が良く、お話をし続けていました。
帰る方向が同じことに気が付き、電車でふたりきりになったときのこと。
「私、来月からオーストラリアにワーキングホリデーに行くの」
と。
だからがつがつしていないし、なにか日本に未練のない、ふっきれた感じがしたのかと変に納得したのを覚えています。
そこで彼女が使った代理店さんがActive Womanでした。
彼女はセミナーで「一度ついた火は消えない」 と聞いたそうです。
その言葉は後々まで私の心に深く刺さり、その後何度もActive Womanへ足を運ぶようになりました。
何度もというのは、きっと私の性格が影響していて、中にはすぱっと決められる方もおられるでしょう。ですが、私はそれができずに何度も立ち止まっては、セミナーへ参加し、途中転職をし、一度は日本での生活に満足してそのままやり過ごしていこうと決めていました。
その後も何度もワーキングホリデーという単語と何度も何度も出会うことになり、あぁまたワーキングホリデーがやってきた、忘れたはずなのに。と自分と折り合いをつけようとしていました。
新卒でホテル業界へ就職した私は、その後のキャリアアップのために損害保険業界へ念願叶い転職することができました。その日々に不満はなく、仕事も楽しく、社内にも中途採用にも関わらずたくさんの人に恵まれて過ごしていました。
そんなときふと頭をよぎるのはActive Womanとそのことばです。
「あぁ、私の中の炎はまだ消えていないのかぁ。」
そして気が付けば28歳。25歳目前でやっとの思いで転職した会社とワーキングホリデーの年齢制限との狭間で揺れ動いていました。
会社に経験した方がひとりだけいて、話を聞いてみたり。でも、ひとりで悩んでいても仕方がないので、Active Womanと他社のセミナーへ参加することにしました。(Active Womanのセミナーの参加は2回目です。笑)
他社では、私の希望を置いてワーキングホリデーの経験がないカウンセラーがどんどんプランを決めていく。一度ワーキングホリデーに対しての想いが冷静になった私は、続いてActive Womanのカウンセリングを受けました。
そこでカウンセリングをしてくださったのが櫻井さんです。同じ埼玉県出身で、ワーキングホリデーに行ったのも30歳近く、女性ということもあり、前者で感じた抵抗感はなく、あっという間にカウンセリングが過ぎていきました。
「わくわくするほうに進む」これは私が櫻井さんと出会って感じた教訓です。今も迷ったときには自分にそう問いかけています。
櫻井さんはそっと背中を押してくれるタイプではなく、
”どーん!”と背中をしっかり押してくださいます。笑
これは当時の私に絶対的に必要な力で、それがなければ行けなかったと思っています。
キャリア・結婚・出産と女性にはたくさんの選択肢があるように見えて実は取捨選択を迫られていたと私は思っていました。
なにかを選ぶことでなにかを諦めざるを得ない、そう思っていた私は当時あった環境を”捨てられずに”いました。日本が大好きだから、家族が大好きだから、お友だちが大好きだから、離れることで取捨選択すると思っていました。
当初は年齢制限に腹がたったりもしまし たが、年齢制限がなければ一生行く勇気がもてなかったように感じます。
また人生の選択をすることに後ろめたさを感じていた私は、その頃から「やらない後悔より、やった後悔」と自分の考えを変えられるようになりました。
後悔するもしないも、未来の自分次第!と同時に自分に圧をかけて。笑
そして今は、私は欲張りなのでここオーストラリアで全部選択してやろうじゃないか!と自分の人生に宣戦布告をしている日々です。
渡航前・直後の悩み
ワーキングホリデーに行ったのは2016年、年末。
もう30歳を迎えてのオーストラリアでした。渡航前はとにかく戻ってきたときへの不安。就職できるのか、30歳を越えて独身女性である私を誰が雇ってくれるのか、結婚は?出産は?とそのことばかりでした。
私の両親も世代的にワーキングホリデーを理解できる世代ではなく、ただただ心配をかけていました。せっかく損害保険業界へ就職できたのに、「なんのために行くのか?」と。
実はこのことばはある年代(会社の上司等)から圧倒的に言われたことばで、そのことばになんの悪意もなく、ただ純粋に疑問をもって聞いてる方がほとんどかと思います。
例えば私の両親のように心配かつ、自分が未経験のモノに対しての抵抗感に近いモノのような感情がことばとして現れただけで悪意はないと思っています。
ですが、気を付けないといけないことは、自分が未経験のモノに対して抵抗感だけならまだしも嫉妬に近い感情を持って接してくる人へは注意してください。
しっかり自分の中で相手が「自分のことを想って発言してくれる人」なのか、それとも抵抗感かつ相手の狭い世界へ引き込んでいきあなたという大切な限られた時間を、可能性を消すような言動をとる人とは価値観の違いなので、それ以上理解を得なくて大丈夫です。
きっとそのような人とは、例え帰国したとしても人生が交わることはないでしょう。
そのような人に自分のわくわくを奪い取られてしまうくらいなのであれば、心から自分を心配してくれる人たちを心配させないように、少しでもワーキングホリデーという制度についての良さを理解してもらう時間を設けたほうが懸命かと思います。
こんな想いを抱えて気持ちも頭もぱんぱんになっていた私は、悩みしかありませんでした。
渡航してからも悩みは続き、私は全寮制の学校へ入学しましたが、勝手な自分のイメージと現実とのギャップで早々に来たことを後悔しだしていました。
当時キャンパスでは20代前半の日本人ばかりで、英語もどちらかというと苦手な子たちが多くいました。私には英語を話そうとしている姿勢に見えなかったのです。
~全寮制の学校で悩みに埋もれていたころの私、顔つきが全然ちがいます(Aちゃんが気分転換に連れ出してくれたとき)~
でも、それは間違いでした。先ほど述べたようにもしかしたら自分にとって未経験であることをしている彼らが楽しそうで、嫉妬していたのかもしれません。
私がいろいろな想いを持って渡航したように、彼らも彼らで想いを持って渡航しています。そこが、自分が頭でっかちになりすぎてわからなかった、想像もしませんでした。
なんでいつも日本人といるの?なんでいつも遊んでるの?
私は大好きな日本を捨てて、仕事も捨てて来たのに。と、
なにも彼らのことを知らずに、または知ろうともせず(キャンパス内母国語禁止なのでクラスが違うと話すタイミングがなかったので)自分の中でうわぁ~と高まった感情と向きあえずにいました。
到着時は悔しくて泣いたり、仕事辞めなければよかったと泣いたり、思いつめていました。
私のルームメイトは日本人と台湾人の女の子で、ふたりともとても落ち着いた子たちでした。オーストラリアにいると、先に行っている子たちがまるで先人のようなパイオニアに見えていました。笑
ある日、どうしてもたまらなくなった私は、まだ着いて間もないころ、ルームメイトの台湾人の子の胸を借りて思いっきり泣きました。
その子は優しく私を抱きしめてくれて”It’s okay. It’s okay.”と母のような優しさで包んでくれました。笑
今となっては笑い話ですが、そのくらい頭がかちこちでした。
そして、環境の変化に弱い私は想像していた以上に自分の対応力のなさに疲れていました。環境の変化に弱いことはわかっていたので、全寮制の学校を選びました。この選択は間違ってなかったと思っています。
同じ出身の子たちが固まるのは日本人だけではなく、世界共通です。また、みんながみんないい意味で勉強だけをしに来ているわけでもないのです。
大学生活の思い出として、社会人だったけれど休憩として、いろんな人たちがいます。だから日本人同士でいようが、関係ないのです。ようやく視野が広まっていき、心に余裕もできたころ、ある日ふと思ったのです。
「日本でできるようなことと同じようなことをしたくない。だってやっとオーストラリアに来られたんだから。」
その日から朝食を一緒にとっていた日本人グループから離れる決意をし、クラスメイトの初めての外国のお友だちとなる韓国人の子と日々過ごすことにしました。
最初は到着日が同日だった日本人の子たちから離れることがこわく、嫌われたらどうしようとか、まるで中学生の頃の感情が戻ってきて、はっ、と我に返りました。
何をやっているんのかぁ、自分。と。もちろん彼女たちは私を嫌うわけでもなく、英語話せてすごいね、と認めてくれていました。そう、みんなもう大人なのです。
彼女たちとは今でも帰国すれば食事に行きますし、思い出話でいつも盛り上がっています。
自分の勝手なイメージや失敗できないという自分への圧にいっぱいいっぱいになっていて、当初の目的を見失いつつありました。
そのころから少しずつ自分の価値観が変わっていくようになりました。韓国人のお友だちや、初めてのクラスのオーストラリア人の先生が当時の私を支えてくれました。
~最初の英語の先生とその娘ちゃんと~
留学して得たモノ
~田舎町での一コマ(この頃には徐々に気持ちが前向きになってきた)~
人とのつながり、新しい自分と考え方の変化、これに尽きると思います。
私が今ここにいられるのは、出会って来たすべてに方々がいてくれたからです。いつも支えてくれている家族、Active Womanまた、渡航しても尚、お友だちとしてつながっている方々、オーストラリアで出会った戦友、みんな大切な私のピースです。
渡航する前に参加したキックオフセミナーで私はきっと生涯、おばあちゃんになるまでも一生お友だちでいられる存在(Aちゃん)と出会いました。
それも通常なら渡航直前に参加するキックオフセミナーに、私だけ渡航6か月前で参加するという私の心配性が功を奏した出来事でした。
その日の参加者はどことなく雰囲気も似ていて、キックオフセミナー後も話が尽きることなく、場所を移動して情報共有やわくわく、不安の感情のシェアもしました。
彼女とはたまたま渡航先学校が一緒であったのもあり、頻繁に連絡を取り合うようになりました。彼女は私より5か月はやく渡航し、追いかけるように私も渡航しました。
到着日には彼女とキックオフセミナーで知り合ったもう一人のお友だちと早朝にも関わらず、空港で出迎えてくれました。サプライズであったため、私はうれしくてうれしくて、号泣したのを今でも覚えています。
いつも困ったら、学校へ駆けつけてくれて、学校から連れ出して側にいてくれました。ちょうどその頃の私は勝手に作ったワーキングホリデーのイメージと現実にどう対処したらいいのかわからない時期でした。
先に進むAちゃんの姿を見てはたくましくもあり、美しくもありました。日本ではキックオフセミナーの一度しか会っていないのに、気が付けばなくてはならない存在へとなっていきました。今年で出会ってから6年。もっと長い時間を共に過ごしてきたように思います。
こうした渡航しなければ出会わなかったお友だちに会うことで私の中でも心が満たされていき、昔のように暗闇にひっぱられてしまいそうなときには、ポーズでもいいから「ぐっと顔をあげて、前を向ける」ようになっていきました。
30年以上自分をやっているので、劇的に変化を遂げることは今でもまだ難しいですが、意識を変えるだけで環境も変えられることに気が付くことができました。
例えば、先に述べた全寮制での生活。変えることのできないなにか、相手に対してただただ不満を述べても仕方がない、またそれこそ自分の貴重なお金と時間を費やしてすることではないと思うことで、今自分がなにをすべきなのか見えてくるようになりました。
SNSも同様、「自分が見て感じたモノ以外信用しない」わざわざマイナスの方向に引っ張られることのないよう、情報は必要最低限にしつつ極力ネガティブを取り入れないようにしました。
自分のぶれない感覚は持ちつつ、オーストラリアでしかできないことをする、英語漬けの生活を心がけることで、日本で感じていた孤独感からもさよならすることができました。
韓国人のお友だちと過ごすことは、もしかしたらほかの人にとってみたらすごく簡単なことかもしれませんが、日本人のグループから抜けて全寮制で生活することは当時の私には高いハードルに思えました。
些細なことばでも英語で話すことでより濃厚な時間を過ごせたり、わからないことばがあって会話に詰まる、調べる、互いに顔を見合わせて「あぁ~!(それが伝えたかったことなのね!)」を繰り返す。
それがオーストラリアにいる意味なのだと実感できるようになりました。彼女は私より卒業時期がはやかったので、そのあとはラテン系のクラスメイトや、学校の先生と一緒にランチをとったりしていました。
それでももっと英語漬けにしたかった私は、Aちゃんに相談して彼女が滞在したホストファミリーを紹介してもらい、最後の一か月をそこで過ごすことにしました。
このように自分の中で頭でっかちになっていた考え方が少しずつですが、スポンジのように柔らかくなっていきました。最大の変化は、ファームに行くと決めたことです。
私のお友だちの私に対する印象はワーキングホリデーやファームジョブができるような人間には到底見えないと言われ、自分でも納得する程、かけ離れたところにいました。
当時私は1年間いられたら十分と考えていたので、クラスメイトやAちゃんがファームに行く姿を他人事として見ていました。
ですが、彼女のきらきらしている姿をみて、
「そうか、私にもきらきらする権利も可能性もあるのか。」
と今思えば自分のイメージに合わせて自分の選択肢を狭めてしまっていたのかもしれません。
そこからは、年齢制限との戦いでした。笑
幸いにも私はその年の誕生日を迎えるまでにファームで働ければ2ndビザがとれる条件でした。そこからもActive Womanのキックオフセミナーで知り合ったお友だちやAちゃんが助けてくれ、ファームがある田舎街へ連れていってくれたり、激戦区であるシェアハウスを紹介してくれたり、そこのシェアハウスに入居したことで閑散期にも関わらずすぐにファームの仕事を得ることができました。
こうして私は周りの人たちに助けられながら、小さな小さな可能性をつないでいくことができました。このときも私は当時まだオーストラリアにもっといたいのか、いたくないのかまったくわからなかったですが、最後にファームに行けばよかったと後悔したくなかったため、自分の選択肢を広げるためにもファームに行く決意をしました。
そしてついに訪れるAちゃんの都市移動。とっても悲しかったですが、つながりたい人とはつながれるという根拠のない自信もあり、笑顔と涙で送り出すことができました。
決して平坦ではなくむしろつらかったことのほうが多かった時期もありますが、こうしてかけがえのないものを得ることができました。
日本であのまま生活していたら得ることもできなかった経験や考え方をたくさんインプットした私は、もしかしたら世界で一番贅沢な30代かもしれません。笑
そして行った先のファームで今一緒に過ごしているかけがえのないパートナーにも出会うことができました。
当時私は語学力向上のため、日本人を避けるべきかと考えたこともありますが、国籍は関係ありません。つながるもつながらないも、すべて自分次第で人とのつながりは大きな財産になると改めて気づくことができました。
私はひとりでは何ひとつ成し遂げられませんでした。出会いに感謝です。
~大切なお友だちAちゃんと~
~初めてのファームジョブ、私の退職日にてみんなで撮影~
これからオーストラリアへ飛び出そうとしているActive moman達へ
~Aちゃんに会いにGold Coastへ~
ここまで読んでくださってありがとうございます。
長く熱く語ってしまいましたが、今「わくわく」していますか?
オーストラリアにいるご自身を想像してにこにこしていますか?
だいそれた目標なんてなくてもいいし、まずは決断したご自身をハグしてあげてください。
もちろん異国で生活することは良いことばかりではありません。危険なこともあるし、何ひとつうまくいかず泣きたい日もあります。
でも未来の自分を幸せにできるのは今の自分しかいません。未来の自分のためにも悔いのない道を進んでください。
~仲良しな台湾人のお友だちと、日本にて~
オーストラリアに行ってもいい、合わなくてすぐ帰国してもいい、必ず戻る場所はあるのだから、完璧を求めず、うまくいかなかったことを失敗とするのではなく経験というなににも代えがたい宝物にして胸をはってください。
日本にいることを選んだとしても、オーストラリアに行くことを選んだとしても、ご自身が納得して導いた決断であればきっと後悔はないはずです。
私も未来の自分のために明るく楽しく元気よく!胸をはって生きていきたいと思います。
最後に出国前に不安で押しつぶされそうになって、誰かと話したくなったら、迷わずActive Womanに電話をしてみてください。笑
私は会社に退職を伝えた日、上司に思いもよらないことばをかけられた日、カウンセラーの土屋さんに電話をし話を聞いてもらってました。メールでも支えていただきました。櫻井さんには大胆さを、土屋さんには称賛を、それぞれ異なるエールを糧に渡航しました。
ひとりで抱えきれないこと、悩んだとしても解決できないことは、ぜひことばにしてみてください。
~仲良しな台湾人のお友だちと、台湾にて~
アクティブウーマンは女性専門のオーストラリア留学エージェントです。
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海外留学をお考えの方や、漠然と今の自分を変えてみたいと思っている方、セミナーのご参加や、ぜひ一度カンセリングでお話をお聞かせください。